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「蕎麦について」
坂本 浩司 1993年12月2日 戻る
タデ科の一年草。
救荒作物のひとつ又蜜源食物としても利用される。果実は三角錘形、黒褐色あるいは、銀灰色で、重さは1,000粒でも16g〜35gしかない。冷涼な気候で良く育ち、生育期間は2〜3カ月と短く、早生の夏そばと晩生の秋そばの生態型が区別できる。
現在の生産国 ソ連 ポーランド カナダ 日本
国内では北海道が全国の半分を生産し、鹿児島、長野、福島、茨城、栃木
玄蕎麦の主な輸入国 中国、アメリカ、カナダで全輸入量の98%、したがって国内総需要の80%近くは、この三国産の蕎麦粉でまかなわれていることになる。
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〔起源と伝播〕
栽培ソバの起源地は、東アジア北部、バイカル湖から中国北東部に至る地域とされてきたが、近年、多くの研究から、カシミール、ネパールを中心とするヒマラヤ地方、中国南部の雲南地域からタイの山地にかけて東西に細長く分布する野生ソバが発見された。この野生種には二倍種と四倍種の二型が分布しているが、栽培ソバはすべて二倍種であること、また野生二倍種の分布は野生ソバの分布地域のうち、雲南地域に限られていることから、栽培ソバの起源地は雲南地域であることが確実となった。
栽培ソバには二種あって、日本、ソ連、中国、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、南アメリカ、アフリカなど世界に広く栽培されている普通ソバとソ連、中国、ヒマラヤ地域で一部栽培されているダッタンソバがある。ダッタンソバは普通ソバと比し苦味が強いのでニガソバともいい、食用以外にも飼料に利用される。中世の頃ダッタン人によってヨーロッパに導入されたため此名がついた。中国南部の雲南地域で野生種から栽培種が成立したことから、中国における栽培はかなり古いと考えられるが、史料としては7〜9世紀に初めてその記録がみられる。又日本へは中国から朝鮮半島を経て畿内に伝えられた。(一説によると伝教大師が唐から持って帰った蕎麦の種子がもとだとの説もある)もっとも古い記録として『続日本記』九巻に、養老六年(722年)に干ばつが起き、元正天皇(蕎麦業者の祖神)が将来に備えてソバ栽培を奨励したとある。詔ではソバには「蕎麦」の字が当てられているが、古訓ではソバムギと読んだ。したがって、「蕎」の一字だけでソバの意味を表していることになる。またソバの実をムギの実に擬して麦(牟岐)の字を付けたとも考えられる。粉にすると、見たところムギと変わらないからで、貝原益軒は元禄十三年『日本釈名』下で、「そばむぎという意まことの麦にあらず、麦につぎて良き味なりという意、民の食として麦につげり」と解説している。
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食物の蕎麦は、一般に次の三種に大別される。
栽培種として普通蕎麦(普通種)とダッタン蕎麦(ダッタン種)。野生種として宿根蕎麦(宿根種)。このうち世界各国で栽培されているのは普通種で、たんにソバという場合はこれを指す。ダッタン蕎麦(韃靼蕎麦)は別名「苦蕎麦」ともいう。普通種のそばは匂いと味が甘いので、甜蕎、甜蕎麦、甜苡麦(テンキョウバク)などともいい、ダッタン種のニガソバと区別されているが、普通種と同じ一年生草本である。普通種の原産地は、上気に記したとおりであると思うが、ダッタン種については、ダッタン(モンゴル)を原産地とする説も唱えられたが、現在では普通種とおおむね一致するのではないかと考えられている。
蕎麦の学名(fagopyrum esculentum)は、食用のブナの実に似た穀物という意味である。普通種の実はたしかにブナの実に似た三角稜形だが、ダッタン種の実は稜があまり発達せず、むしろ小麦の種実によく似ている。花の色も普通種の白に対して淡緑色で、さらに自家受精であることなど、いろいろな点で普通種との違いがある。ヒマラヤ周辺の人々は、ダッタン蕎麦を堅めに練ってパン状に焼いて食べるのが一般的であるようだ。宿根蕎麦は多年生で、別名シャクチリ蕎麦といわれ日本でも明治時代に中国から薬草として導入されたが、若葉が食用になるため「野菜蕎麦」とも呼ばれる。冬は地上部の茎葉が枯れてしまうが、春になると地下の根茎から次々と新しい芽が出て一面に広がる。
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〔語源〕ソバの語源は、ソバの果実に三つの稜があり、ムギと対比するとその点が大きく異なるので、古くはソバムギ〔曽波牟岐〕とよばれた(『和名類聚鈔』『本草和名』)。命名からしてその渡来は麦より遅い。稜は「木の稜」など、角の意味に使われた言葉だったし、また、山の険しいところや崖を岨というが、これも昔の読みはソバであった。そこで角麦、稜麦の文字もあてられている。(陽あたりのよいそばだった山地に良く育つことから起こったともいわれる)
曽波牟岐の゛牟゛の正字は で大麦の事を意味し、牟岐は大麦・小麦の総称である。『和名類聚鈔』が後に増補された二十巻本に、「曽波牟岐、一云久呂無木」と、クロムギの異名を追加しており、平安末期の『類聚名義抄』ではソハムキ、クロムキの訓が並記されている。クロムギは漢名の烏麦に通じる。平安時代にはまたソマムギの呼称があったことが、慶長六年(1254)『古今著聞集』に記述されている。このソマムギはやがて略されてソマと呼ばれるようになるが、どういうわけか九州に多い呼称で、現在でも大分県宇佐郡や熊本県八代郡などで方言として残っている。ソバムギが略してソバと呼ばれるようになるのは室町時代(『下学集』下巻、文安元年・1444)以降のことと考えられる。
『本朝食鑑』(1697)では「気味甘く、微寒にして毒なし、気を降ろし、腸胃の滓穢積滞を寛にす。水腫・白濁・泄利・腹痛・上気を治し、或は気盛んにして湿熱あるものによろし」とある。しかしソバキリを多く食うと身体に潜んでいる風気を引き起こすことになったり、また癰や疔をおこすこともある。もしソバキリを食べて入浴すると卒中になったり人事不省になることもあると記されている。また『和漢三才図』には、そばを食って同時に西瓜を食うと煩悶して死んでしまうものがある。(但し西瓜を先にソバを後だと害はない)それは西瓜は水だから速やかに胃から腸へはけてしまうので「合食の難をそがれるのだ」と書いてある。
『本草備用』の中にそばの効能が詳しく述べられている。一部分は『本朝食鑑』と同じであるが、すなわち「そばには人の身体を冷やす性質があって、気分を落ち着かせる。また胃や腸の壁の緊張を緩める作用もある。だから、胃腸の内壁に永年の間ひっかかり、へばりついていた食物の消化かすなどの汚いものを、自然と取り除く事もできる。したがって、体内の全ての内臓内に沈着し、こびりついていた汚い毒、たとえば、多年の間に積もりに積もった酒の毒、食べ物の毒などを取り除く作用があるとするのである。また、下利の傾向や、婦人の帯下などのような区々たる病的障害をも取り除くことが出来る。そのほか、皮膚の出来物や、瘡の類、あるいは湯湯婆などのやけどのあとなどでも、そのそば粉を塗り立てると忽ち治る」と書いてある。また「身体が生まれつき虚弱な人では、胃腸が弱いものだから、そばは余り過食してはならない」という注意書きもある
通利丸は漢方の朱明丸と云う処方を売薬化したものであるが、大黄と同量のそばを加えることによって大黄の力を適正に加減して、快い便通をもたらすという薬であろう。
おしなべて肉食を主とする人種ではそばはあまり歓迎されない。欧州ではそばは家畜の飼料でしかない。理由はタンパク質の過剰摂取につながる。
そばには比較的多量のタンパク質がふくまれる。それはあたかも玄米と同じで、これを主食としておれば、ほかの食品をとらなくても、生命だけは十分に維持できるのである。
そばの持つ霊妙な底力の話として、たとえば、比叡山の阿闍梨が千日行をされるのにそば餅・・直径10センチ、厚さ1.5センチ・・のなかに人参やそのほかの野菜類をみじん切りにして入れこんだものを常食とし、ただこれだけの三・四個づつを一日三回食うだけで、一千日間の苦行を続け、肉体的にも耐え抜いている。また木曽の御嶽さんで行者たちが、寒中滝に打たれるとき、他の物を食っていると寒くて寒くて仕方がないのに、そば粉を水でかいて食っていると、滝に打たれても、決して身体が凍ったり凍傷が出来たりしないそうである。また、かの木喰上人という聖僧が、五十年もの長い間、ただそばのみを主食としていながら、すぐれた体力を持ち、飛び抜けた霊感の力を得ていられたという実話も、またそばの活力の程を示している一例である。
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そばの栄養成分
そばの栄養はでんぷんが主体だが、産地や収穫時期によって多少の違いがある。
また、そばは穀物全般がそうであるように、実の内部(胚乳部が中心)と表層部(甘皮周辺)とでは、成分組成が大きく異なる。そのため、蕎麦粉は、実の中心部から順に一番粉、二番粉、三番粉と製粉されるため、それぞれの栄養成分にはかなりの違いが出てくるのである。実の表層に近づくにつれて蕎麦粉の色が濃くなるのは、セルロースなどの不消化成分が多くなるためだが、その他の栄養成分の含量も増える傾向にある。挽きぐるみ(全層紛)の場合、蕎麦粉には13%のタンパク質が含まれる。これは豆類を除く穀類一般の中で最も高い含有率である。
しかも、タンパク質の栄養価を表す目安となるタンパク価は、白米の72、小麦粉の47、に対して72〜76と植物性タンパクのなかでも非常に良質の物である。また、必須アミノ酸としては、小麦粉に特に不足しているリジンと白米に含量の少ないトリプトファンとに富んでいる。反対に蕎麦粉の不足アミノ酸はメチオニン+シスチンであるが、これは小麦粉に多い。したがって蕎麦粉と小麦粉を混ぜて作る蕎麦切りは、タンパク質補給の点で理にかなった形になっている。
一方、ビタミンなどの微量成分の組成も特徴的である。蕎麦粉中にはビタミンAおよびCはほとんど含まれないが、ビタミンB群はかなり含まれている。特に日本人に不足しがちなB1、それにB2が多く含まれ、米や小麦粉の約2倍の含有量である。また、蕎麦粉にはルチンが多く含まれていることもよく知られるようになった。ルチンは毛細血管の働きを安定・強化させ、脳出血や出血性の病気に予防効果があるといわれている。なお最近特にその重要性が注目されている食物繊維の含有率も約5%と高く、白米の2.5倍になる。
本草綱目
蕎麦 和名 そば
科名 たで科
気味:【甘し、平、寒にして毒なし】 詳細は別に記す。
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蕎麦の花
そばの花は茶人に欠かすことの出来ない茶花の一つでもある。それはあの白い細かい花が丁度美人の白い歯並びを思わしめるような風情があるからである。
そばはまた花でもてなす山家かな 芭蕉庵桃青
開高 健は「そばの花」という随筆の中で次のように書いている。「おそらく畑ではなくて山の道端に咲いているだけなら、そばはアカザや何かの、名もない雑草の一種として見過ごしてしまうしかないだろうと思われる姿態である。けれど、よく手入れされたことが一瞥してわかるつつましやかな山畑にいちめんに白い花が咲いているところを見ると、豪奢な華やぎはないけれど、野生と透明さの漂う、はかないような、可憐なような、声のない歓声を感じさせられるのである。花としては勿忘草と同じくらい小さくて、つつましやかで、けなげではあるけれどひっそりとしている。しかし、それがいちめんに群生して咲いているところを見ると、まだ声を出すことも知らない幼女たちが一斉に拍手しあっているような気配をおぼえさせられることがあって、ほほえましいのである。人の姿も鳥の影も犬の声もないような寂滅の山の道で、突然透明なにぎわいとすれちがうのである。」
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蕎麦切りの起源
わが国のソバ栽培は、五世紀の中ごろにまで遡るといわれているが、蕎麦切りとしての歴史は比較的浅い。江戸をはじめとする都市において大衆食として普及したのは、ようやく江戸時代中期になってからのことであり、また農村においても一般化したのは同じく江戸時代中期以降のことである。ただし、農村においては当時はまだ蕎麦切りはハレの日や振舞いのための御馳走だった。普及はともかく、そば米やそばがきに代わる新食品としての蕎麦切りの起源はいつ頃にたどれるかというと、未だ不明な点が多く確定はされていない。
享保十九年(1734)刊『本朝世事談綺』巻一、飲食門の蕎麦切りの条には、「中古二百年以前の書、もろもろの食物を詳かに記せるにも、蕎麦切りの事見えず。ここを以て見れば、近世起こる事也」と、室町時代の文献には蕎麦切りの記事が見当たらないことを書いている。実際、室町中期の通俗辞書ともいえる節用集の、慶長二年(1597)改訂版『易林節用集』に当たってみても、饂飩、索麺、斬麥など10種類余の麺類が記されているにもかかわらず、蕎麦切りの用語は出てこない。現在のところ、蕎麦切りの初見とされるのは、長野県木曽郡大桑村須原にある臨済宗妙心寺派の定勝寺の文書の中から、天正二年(1574)の仏殿の修理工事に蕎麦切りを振舞ったという記録がある。起源はそれ以前まで遡らなければならない。
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蕎麦切りの発祥地
森川許六編の俳文集『風俗文選』(宝永三年1706)に収録する雲鈴作「蕎麦切ノ頌」の書き出しに「蕎麦切というものは、もと信濃国本山宿(塩尻市)より出て、あまねく国々にもてはやされける」とある。また国学者の天野信景が書いた雑録『塩尻』の宝永年間の所に、甲州の天目山(山梨県東山梨郡大和村にある臨済宗棲雲寺の山号)から始まったという記述がある。ところが正保二年(1645)版『毛吹草』は、信濃国の名物として蕎麦切りを挙げて「当国ヨリ始ルト云」と記している。結局確証はないのである。
蕎麦切りの最初の食べ方は、後の盛り蕎麦の一式であった。けれども当時はまだ醤油などは出来ていない。味噌の垂れ汁に、薬味をこてこてといれて、それに蕎麦を侵して食べた。その薬味には、花鰹、わさび、唐辛子、海苔、陳皮などよりして、今では異様に思われる焼き味噌やら梅干しまでも使った。その上に大根の絞り汁が、どうしても無くてはならぬものとされていた。それらの薬味は、食べるに当たって、各自が思い思いに好きなだけ入れて、味を調えたのであった。
元禄時代には、蕎麦はもう饂飩に対抗することの出来る人々の嗜好物となった。
蕎麦は、最初は盛り蕎麦の一式だったといったが、掛け蕎麦も相当に早くから作り始められた。寛延年間に日新舎友蕎子という蕎麦好きの人が著して、写本のまま伝えられている蕎麦全書というものがあって、その中に掛け蕎麦は江戸新材木町の信濃屋が元祖だとしてある。その掛け蕎麦と云うのは、なお後にそうなったので、はじめはぶっかけ蕎麦であり、蕎麦全書にもまたそのように書いてある。
夜蕎麦売駈落者に二つ売り
蕎麦切でさへも店やは汁少な
手打蕎麦下女前垂を借りられる
晦日蕎麦残った掛けはのびるなり
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蕎麦湯
蕎麦を食べた後に蕎麦湯を飲む風習は、先ず信州で始まり、それが江戸に広まったとされている、。年代は明らかではないが、元禄以降と推定されており、もともと蕎麦湯ではなく「ぬき湯」と呼ばれていたといわれる。元禄十年(1697)刊の『本朝食鑑』は早くも蕎麦湯を取り上げ、蕎麦を食べた後にこの湯を飲まないと必ず病にかかる、とも解釈される内容のことを書いている。
なお蕎麦湯をいれる湯桶は口が正面についていないで横の方に長く突き出ているが、ここから、人が話をしている最中に横から口出しするのを「蕎麦屋の湯桶」というようになった。
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節句そば(雛そば)
三月三日の桃の節句(雛祭り)、またはその翌日、雛段に供えるそば。
三日に、草餅を供えることは平安朝時代からあり、白酒を供えることは室町時代からあった。これら節日(せちにち)の供え物を節供(せちく)といったが、この節供が後に節句となって節日と同じ意味の言葉に変わった。人形で身体を撫でて身のけがれや禍を人形に移してしまう祓(はらい)は古くから節日の行事のひとつであって、端午、七夕、八朔(八月一日)、重陽(九月九日)にも同じような祓(はらい)が行われていた。やがて、此人形に対する祓除の観念が段々薄れていって、更に人形が装飾的になり保存のきく永久的なものになるにつれて、そのつど捨ててしまうのをやめて、家に飾るようになった。これが雛祭りの風習の起源であり、江戸時代には五節供のひとつとして定められた。もともと、雛祭りには今日のような女の子の出産を祝うという意味はなかったのであるが、新興の町人が子孫の繁栄を願うため、今日のような意味を付け足したのである。
この雛そばの風習がいつからはじまったものなのかは不明だが、江戸時代中期には、民間でかなり広まっていたと考えられる。江戸では、三日ではなく四日の雛納めの日にそばを供えてから雛檀を崩し、雛飾りの道具を元の箱に仕舞った。四日にそばを供える意味は、清めのそばを供えて、来年までのお別れを告げるため、あるいは、雛様の引越しだからの説がある。また文政13年(1830)の『嬉遊笑覧』巻六雛流しの条では、「今江戸の俗に、ひなを取りをさむる時、蕎麦を供ふ。何れの頃よりするに歟、いと近きことなるべし。こは長き物の延ぶるなど云うことを祝う心に取り足るなるべし。」と長く伸びる縁起からだと説明している。
樟脳を蕎麦の次手に買いにけり
蕎麦切りの一すじのこる雛の腕
樟脳に包んでおいて蕎麦を喰い
毛せんの上で二八を盛り分ける
などの雛そばと関連した古川柳も多い。
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年越しそば(歳取りそば、大年そば、大晦日そば)
由来諸説
1)運そば説
鎌倉時代、博多の承天寺で年末を越せない町人に「世直しそば」と称して蕎麦餅を振舞った。すると、その翌年から町人たちに運が向いてきたので、以来、大晦日に「運そば」を食べる習慣になったという。「運気そば」あるいは「福そば」とも云う。
2)三稜(三角)縁起説
室町時代、関東三長者の一人であった増淵民部が、毎年の大晦日に無事息災を祝って「世の中にめでたいものは蕎麦の種 花咲きみのりみかどおさまる」と歌い、家人共々そばがきを食べたのがはじまりとする。蕎麦の実は三稜なので「帝」に通じる。また、三角は夫婦と子供の関係にたとえられ、縁起がよいとされてきた。
3)「細く長く」の形状説
蕎麦切りは細く長くのびることから、家運を伸ばし、寿命を延ばし、身代をながつづきさせたいと縁起をかついだ。「寿命そば」(新潟県佐渡郡)、「のびそば」(越前)ともいう。
4)「切れやすい」ことからの形状説
そばは切れやすい。そこから、一年の苦労や厄災をきれいさっぱり切り捨てようと食べるという説。「縁切りそば」「年切りそば」ともいう。また、一年中の借金を絶ちきる意味で「借銭切り」(岡山県賀陽町)、「勘定そば」(福島県磐城)とも。どちらも残さずに食べきらないといけない。
5)そば効能説
『本朝食鑑』にあるように、そばによって体内を清浄にして新年を迎えるという説。薬味の葱は、清めはらう神官の禰宜に通じる、との俗言もある。
6)土重来説
そばは一晩風雨に晒されても、翌朝陽が射せばすぐに立ち直る。それにあやかって「来年こそは」と食べる。また過ぎ去った一年を回顧反省する「思案そば」(栃木県芳賀郡)もある。
7)金運説
金箔を打つとき、打ち粉にそば粉を使うと金箔の裂け目を防げ、裂け目が出来ても一カ所に寄ってくっつく。また、金銀細工師は飛び散った金銀の粉をかき集めるときにもそば粉を使う。そこから、そばは金を集めるという縁起で食べるようになったとする。
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引越しそば
江戸時代中期から江戸を中心として行われるようになった。(天保年間にはすでにその風習はあった)大阪にはその習慣はないとされる。引越しそばは、隣近所へは二つずつ、大家、差配(管理人)には五つというのが決まりだった。「おそばに末永く」「細く長くお付き合いを宜しく」と言ったのは江戸つ子の洒落で、そばが一番手軽で安上がりだったことが本当の理由ではないだろうか。ちなみにそれ以前は小豆粥を重箱に入れて配ったり、小豆をそのまま配ったり煎り豆を用いたりもしたようだ。
吉行淳之介は次のように随筆「蕎麦」に書いている。「引越し蕎麦」の明確な意味を辞書で調べてみると「今度おそばにまいりました」ということで要するに語呂合わせのシャレを含んでいる。年越し蕎麦はどういう意味合いか。「細く長かれと祝って、大晦日の夜または節分の夜に食う蕎麦」と辞書に出ている。ただこの日本語には、いろいろ考えさせられるところがある。「細く長かれと祝って」という文章は、なにか落ち着かないが、それはともかく「細く長い」のは目出度いことだと最初から決めているところがある。この反対語は、「太く短く」であるが「太く長く」という考え方は無いのだろうか。外国では、どういう言い方があるか知りたいが、わが国では「太い」場合は、「短く」なくてはいけないらしい。「太く長く」などという考え方は、あまりにずうずうしく天も人もともに許さない、というわが国独特の貧しさが感じられる。
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棟上げそば
建前に蕎麦を振舞う
とちりそば
「間の悪い役者蕎麦屋の一壇那」の川柳も出来ているくらい芝居関係者の中では一般的に使われている風習。中村勘三郎研究者の関 容子さんの随筆にもとちりそばというのがあり、楽屋中に蕎麦を振舞う様子が書かれている。
新板もの祝いそば
地本問屋では新板ものが出ると、著者や画師などの関係者を招いてそばを振舞う。
新吉原敷初めそば
遊女が客より夜具を新調して贈られた(多くは無心した)時は、祝儀としてそばを振舞う。
この敷初めの祝いをすることは、寛保年間京町三浦屋孫三郎抱えの格子女郎哥浪から始まったという。しかしこの祝いに、客との縁の永く続くことを願って蕎麦を配ることは、下って宝暦・明和の頃からであろう。余事ながらこの蕎麦の代金や敷初めに楼内に撒く祝儀に金も総て夜具の贈り主、すなわち客の負担となる。新調の夜具に唯一度の寝初めをするために百金を投ずる事となり、客としては大痛時、さればこそ川柳の好材料ともなるわけである。
「蕎麦の客将棋の駒で数をとり」
「百人の蕎麦食う音や大晦日」
蕎麦に関係のある噺
「蕎麦清」 「時蕎麦」 「蕎麦の殿様」 「そばの羽織」
蕎麦と蝸牛と酒の話
八代目 林家正藏の話として、晦日に東京では蕎麦を食べる風習がある。みそかにそばをたべると小遣い銭に不自由しないからみんな食べるんだよといって無理に食べさせられたものだが、あれはサナダ虫の予防で、昔の人は月の初めには、腹の虫が上を向くと信じていた。。だから、月末に蕎麦を食うのは効果満点なわけ。しかしこんな事実を話したのちに、さあ食え! では妙味がなくなるから、お金に困らないからお上がり・・・・昔の人は用意周到だといっている。
昔は蕎麦屋の二階といえば恋を語るには絶好の場所であったそうだ。席料をとるわけでもなく、誂え物をしてそれを運んで来れば、今度は客の方から手を叩くまでは、誰も二階へ上がってこないまことに粋なものであった。男女二人の客が二階に上がると店ではオシドリといって店の者にも二階へ行くときには梯子段ところで「お待ちどうさま」と声をかけろ!なんてえ注意をしたとも書いてある。
信濃では月と仏とおらが蕎麦 凍りそばの宣伝に作られた俳句 小林一茶
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蕎麦屋の通し言葉
・つく 1個のこと「天つき三杯のかけ」は、てんぷらそば一杯、かけそば二杯に意味
・まじり 2個のこと。「天まじり七枚もり」
・かち 二種類のの出物が五個以上の奇数で多いほうの出物を先にして「かち」をつける。「てんぷら勝って七枚おかめ」また偶数の時は「と」 が使われる「てんぷらとおかめで六杯」
・さくら 蕎麦の量を普通より少な目に盛って出すことをいう「ざるお代わり、台はさくらで願います」別名「きれい」という
・きん さくらと反対の意味
・おか 岡に上がっているという意味から、種ものの種を別の器にもってだすこと。「岡で天ぷら」
・おかわり 一人の客で二杯の注文の場合に使う。
・お声ががり そばを出すのは客の声がかかってからと言う意味
出物が三種類以上の場合は「まくで・・・」と続け、一緒の客だから同時に出して欲しい云う意味を持つ。「おかめが勝って七杯天ぷら、まくでうどんとそばかも四杯」
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蕎麦栽培に適した条件
自然条件としては、主として気温と昼間時間の長さが挙げられる。蕎麦の花粉発芽の適温は20℃以下で、一般に28℃を越えると、めしべの発育がよくなく、不作の大きな要因になる。蕎麦栽培には冷涼な気候が適しているといわれるのは、このためである。しかし、夏の暑い盛りに収穫される夏蕎麦の品種は、7,8月の高温下でもよく結実する。また初夏(5月から6月頃)の昼間の時間の長くなる時期に種を蒔くと、比較的短期間で開花するのも夏蕎麦の特徴である。これとは反対に秋蕎麦の場合は、比較的温暖な地域でなおかつ冷涼な気候という条件下で、8月下旬以降の日が短くなってゆく時期が開花・結実に適している。しかし夏蕎麦、秋蕎麦といってもその中に様々な品種があり、一概に好条件はこうだと言い切れない。ただ、一般に蕎麦は、霜に弱いことで共通している。もし霜にあうと、たちまち枯れてしまう。そのため春蒔きの場合は発芽時の晩霜に、秋蒔きでは、特に山間地帯での結実期の初霜が要注意となり、降霜の時期を外すように栽培されている。蕎麦栽培は本来、高冷地の地味と気候に適しているので、高原地帯、信州では良質の蕎麦がとれる。その信州の高原蕎麦の中でも特に有名な「霧下そば」の産地は、蕎麦栽培に適する自然条件の典型例といえよう。霧下とは高原の山裾地帯のことで、海抜はおおむね700から900mほど。昼夜の温度差が大きいが、晴れた日の早朝は霧が発生し、夜の冷え込みと日中の気温上昇との差を和らげる。秋蕎麦の生育、結実期にこの朝霧が立つと、味、栄養とも優れた蕎麦がとれる。
蕎麦に適した土壌
蕎麦は特に土壌を選ぶことはないとされるが、野菜がよく育つような肥沃な土地は向かないようだ。また、近年は稲作転換対策の特定作物に指定されて以来、水田からの転換畑での栽培が増えているが、蕎麦は排水不良な重粘土質や湿地では生育が悪いので、水抜きが重要な課題である。水田のあとは土中の水分が多いため、長雨などで立ち枯れをおこしやすい。加えて、転換直後は肥料分も効きすぎているから、適した土壌になるまでには2〜3年はかかるともいわれる。
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